7月30日 スペイン
スペインで毎年恒例となった「Ilustratour=イラストラツアー」への最初の招待が届いたのは2012年11月、入院中の病室でのこと。むろん受けられる状態ではなくお断りした。その後骨髄移植を受け、翌2013年4月に退院。その様子をFACEBOOKで伝えると、すぐに再度の招待が届くも、まだまだ体調が整わずにまたしても断念。2度も辞退してしまったのだが、今年1月に3度目の招待が届けられた。当時はまだ体調は不安定だったが、とにかく受けることにし、体のケアーに努めることにした。そして6月、ソウル、パリを経由してマドリッドに到着。空港から駅に向かい、汽車で1時間、バヤドリッドにやって来た。街並は中世の佇まいをそのまま残し、静かで知的な街。古くからあるファサードの柱は補修され、モダンなデザインのゴミ箱が至る所に置かれていた。
Ilustratourは、世界から招待された10数名の作家によるワークショップが2週間に亘って行われ、それぞれ最大25名の受講生を受け持つことになる。授業は朝10時からスタートし夕方7時まで。途中2時間の休み(シエスタ)があり、月曜から金曜日まで毎日7時間の講座が5日間続けられる。私のクラスは満席。中にはブラジルやオランダ、フランスからも来ている受講生がいて、全員がすでにプロとして仕事をしているイラストレーターやデザイナー、建築家の女性もいた。天気にも恵まれ毎日が青空。時折通り雨が降るも、美術館の回廊を利用した会場は心地よくとても開放的な場所だった。
講座の最後にはタクタイル・ワークショップを行い、受講生にとっても私にとっても刺激的な5日間のワークショップを終えた。日替わりで複数のプログラムを実践しながら出来上がってきた受講生たちの作品は、力作傑作揃い。見応えのある作品ばかりだった。
ワークショップを終えたその晩に、友人で、スペインのイラストレーターJavier Zabalaと会う約束があり、折しも翌日のトークイベントに参加するSmall Worldのメンバーたちと合流。ディナーを共にした。
土曜日に開催されたトークイベント。会場には500人以上が集まり満席。講演の最後にはスタンディング・オベーションを受け感無量。何度も辞退せざるをえなかったイベントに、晴れて来ることができ、ほんとによかった。出発前には多少カラダに不安はあり、滞在中には顔の発疹が増えるなど、いろいろあったが、この日ばかりは安堵感に満たされた一日となった。
講演を終えすぐにホテルに戻り、車で迎えに来てくれたクララとカルメンと落ち合い、1時間ほどでサラマンカに到着。すでに陽は落ちかけていたが、夕暮れがとても良く似合い、自然に囲まれた歴史の街、サラマンカ。その晩は歓迎の夕食会があり、街のヒトたちが、私たちの到着を待っていてくれた。ホテルも元修道院の建物で、重厚で歴史の重みが感じられた。
翌朝ワークショップの会場になる「ラケリーダ」に車で向かう。途中の景色は広々とした草原が続き、時折ウシの放牧に出会う。ワークショップは午前と午後に1回ずつ行われ、地元のヒトたちとの楽しい交流の場となった。帰りにはコウノトリの夫婦が巣づくりをしている場面に遭遇。あかちゃんを運ぶお話は、ここスペインから始まったのだろうか、と空をしばらく見上げていた。
6月12日 慢性GVHD
骨髄移植後に起きる慢性GVHDがずっと続いている。拒絶反応の場合は、外からの異質なものを排除することで起きる症状だが、この場合はその真逆で、移植された免疫機能がカラダを攻撃して起きてしまう。顔の発疹はひどくなったり良くなったりのくり返し。最近は目がひどくかゆい。ついつい掻いてしまい、目の周囲が腫れてしまって、今はステロイド剤を塗って対処している。涙腺も攻撃を受け、目の表面は乾燥してしまい、しばらく仕事を続けていると、目がぼんやりとしてきて見えにくい。ずいぶんと視力も落ちてしまったようだ。仕事をするにはあまりいい状態ではないが、頼もしい助っ人がそばにいて、むしろ仕事を手渡すようになり、スタッフの育成にはこの方がずっといいと思っている。がんばって乗り越えようとすると、できない時のもどかしさがどうしても残ってしまう。だからまずは受け入れる。受け入れながら向き合う努力をしていくと、やがて覚悟が生まれてくる。体力の方もまだまだで、加えて筋膜が硬くなり腱が萎縮してしまうので、関節の曲げ伸ばしが多少困難になっている。筋肉を柔軟にする上でも軽度な運動は必須。主治医の先生にも、社会復帰をしていきたいと告げると「応援します」と力強い言葉が返ってきた。入院生活では、ずいぶん背中が丸くなってしまったが、意識して背筋を伸ばそうとすると、気持ちまでがしゃんとしてくる。まぁとにかく粘り強く。
3月10日 パリ、そしてボローニャへ。
骨髄移植後の1年間は、免疫力がまだ低く海外渡航が禁止されていた。海外での見知らぬウィルスとのコンタクトが危険と見なされていたから。ちょうど先の2月に1年間が経過した。順調に回復しているとの判断から主治医の了承が得られ、先月末にはソウルへ。短い滞在ではあったが有意義な時間を過ごすことができた。そして今月19日からはヨーロッパへ向かう。パリのブックフェアーが20日から4日間あり、会場でのサイン会やレトワゾーでのトークイベントが予定されている。23日の午後には、パリからボローニャへ向かい、翌日から始まるボローニャ・ブックフェアーに参加する。ブースは例年通り「SMALL WORLD」。場所はホール25番のA169にある。会期はこちらも4日間だが、ブックフェアーにあわせて2つの展示会が別の会場で開催され、およそ1ヶ月続く。オープニングやトークイベントなどが連日予定されていて、きっと忙しくなるだろうなぁ、体力は大丈夫かなぁと思いつつも、昨年は入院治療中のため行くことが叶わず、無菌室の中で外にも出られなかったことを思うと、自然と力が湧いてくる。さて、これからが再出発。海外へのチャレンジがはじまる。
2月4日 未だ闘病中だけど…
昨年2月7日に骨髄移植をして、そろそろ1年が経つ。経過は良好、順調に回復している。今は1ヶ月に1度のペースで定期検診があり、その都度血液検査が行われている。なんとか白血球は基準値に達してはいるものの、血小板と赤血球が未だ不足している。前回の検査では免疫力の検査も行われ、まだまだ常人の4割程度と主治医に告げられた。すでに仕事には復帰していて、ワークショップも積極的に行ってはいるが、移植を行ったため風疹とはしかの抗体が0となってしまい、子どもとのコンタクトには要注意。主治医からワクチンの接種を薦められ、2週間前に受けたばかり。雑菌やウイルスの感染にも充分な注意が必要だが、さらに紫外線にも要注意。皮膚や眼などの弱い部分に、紫外線の攻撃を受けてしまう。だからいつも外に出掛ける時は、マスクとサングラスは欠かせない。まだまだ「闘病中」というべきなのだろうが、本人はいたって前向き。主治医から海外の渡航が許可された時には、心の中でひそかにガッツポーズ。飛び上がるほど嬉しかった。
写真=市原湖畔美術館へ向かう途中の「海ホタル」にて
10月3日 順調に回復
振り返ればもう1年以上が経過する。昨夏に急性リンパ性白血病が発覚し、即入院。2月の骨髄移植まで計5回の抗がん剤治療を受けた。正直きつかった。特に移植前には致死量の数倍の強さの抗がん剤がカラダに入ってきて、さすがにカラダが悲鳴を上げた。体内は焼けただれ、粘膜障害は、口内、食道、胃、腸、大腸とすべての消化器官にあらわれ、水一滴すらも飲めずにいた。栄養はすべて点滴で摂取、同時に鎮痛作用のモルフィネが、毎日一定量、24時間かけて投与された。それでも喉の痛みは収まらず、ある日試しに水を少しだけ、ゴクンと飲んでみた。一瞬激痛が走ったが、以来、水が飲めるようになり、少しずつ食べられるようにもなった。口から食べられるようになったことで回復力もつき、予定より1ヶ月前の4月4日に退院することができた。
退院してからもまだまだ不調はつづき、体力も激減してしまったため、歩くことすらおぼつかなかったが、3ヶ月過ぎたあたりから、仕事へも少しずつ復帰することができ、今は、5ヶ月続けられた免疫抑制治療を終え、それまであった食事制限も解除。ナマモノ、アルコール類もOKとなり順調に回復している。しかし油断は禁物。まだ免疫力が低く雑菌やウイルスに感染しやすく、特に肺炎には要注意。先日も38度を超える発熱があり、救急で病院に駆け込み、抗生剤と解熱剤とでなんとか乗り切った。抗がん剤の後遺症は、足のしびれを残し、免疫機能はまだ安定したとは言えず、体中の発疹にはいまだに苦しめられている。とは言うものの、入院時には余命2ヶ月と言われた身。進行が早い病気のため、もしもそのまま放置していたのなら、きっと海外の街のどこかで倒れていただろう。この10月に還暦を迎えることになる。60年前、宿命として授かった命は、50代で尽きてしまったかもしれないが、運命として貰った命にチャンスが与えられた。まだまだ生きる希望があるかぎり精一杯生きていく。そして仕事にも。
8月3日 板橋区立美術館での講演
9月26日 長野県小海小学校でのワークショップ
10月30日 骨髄移植
「自分は大丈夫」といつも漠然と思っていた。ところが突然の「急性リンパ性白血病」の発病に驚き、唖然とした。8月30日に入院して以来ちょうど2ヶ月が経過する。抗がん剤治療は未知の経験とは言え、それでも「自分は大丈夫」と思っていた。ところが1回目の治療で感染症が起こり、腸内環境がおびただしく悪化。一時は危険な状態にまで陥った。抗がん剤治療は6回に分けて行われる。順調に進めば半年、感染症や合併症などが併発すると、それ以上かかる。11月からは3回目の治療が始まり、今後このまま抗がん剤治療を続けるか、あるいは骨髄移植に移行するのか、決断しなければならない。
この病気は成人の場合、再発のリスクが伴う。2回目の治療を終えた時点でも「自分は大丈夫」とそれでも思っていた。このまま治療を続け、2月に退院。3月のボローニャ・ブックフェアーにはなんとか間に合うと願っていたが、1年間は海外への渡航は控えるべき、と主治医に言われ、病気と向き合うことを、まるで風邪でもひいたような感覚でいた自分の考えが、とても甘かったことを思い知らされた。
いろいろ考え、家族とも話し合った。幸いにもドナーは、兄と姉の二人が適合し、二人とも快諾してくれている。あとはドナーの健康状態を検査し、問題がなければ骨髄移植に移行できる。「命がけの治療になります」と主治医からは厳しい言葉。「年齢」というリスクはどうしてもつきまとう。
「自分は大丈夫」と、どこかに過信や我見はあり、反省もまた多々あったとしても、これまでの人生は大病もなく、むしろ幸運な人生だった。出産時を「授かった命=宿命」とするならば、一時は余命2ヶ月とも言われた命、還暦を前に「貰った命」のように思えてくる。宿命そのものを変えることはできないにしても、運命は行動そのもので変えることができる。まったく未知の経験になる骨髄移植。それでも、やるだけのことはやり、悔いを残さない選択をしようと考え、骨髄移植を受けることにした。
これまでにたくさんの励ましをいただいた周囲のヒトたちへの感謝の気持ちと、医療現場でひとりひとりの命と向き合う医療のヒトたちを信頼し、相変わらず、懲りもせず、それでも「自分は大丈夫」と自分を信じて臨みたい。移植は順調に進めば、年内、もしくは来年早々になるだろう。
9月4日 治療開始
迷った挙げ句、ブログに書くことに…。
7月後半から、ソウル、ニューヨーク、そしてブラジル、ソウルと、およそ1ヶ月半の長期滞在の途中から、あれはサンパウロに着いた翌日からだった。今までに感じたことのない倦怠感に襲われ、それでも仕事を続け、その後ソウルでの2週間の授業を終え、帰国後すぐに大学病院での診察を受診。検査結果は思いもよらぬ「急性白血病」。翌朝から緊急入院となった。進行の早い病気で、もし来院していなかったなら余命2ヶ月だったと言われ、血液が三分の一しかなく、立っているのが不思議なくらいとも言われた。
細胞レベルの異常から、表面が小さな芽球と呼ばれる状態に陥り、それらが急激に増え、血液が作られていない状態なので、輸血をしながら抗がん剤治療を受ける。30日に入院。カテーテルを喉から入れる施術を受け、点滴(水成分)と数回の輸血を受けながら、最終の診断結果を待つ。輸血を受けはじめてからは、体調も戻り「あー、帰りたい」と思いもしたが、むろんそうは行かず、真面目に治療を受けながら4日間待機。検査結果は「急性リンパ性白血病」と診断、治療方針が決定された。昨日からは無菌室に引っ越し、まずは助走的な治療がスタート。本格的な抗がん剤治療は5日後ぐらいから始まり、ここ2週間がヤマ場と主治医から言われた。白血球が極端に減少するので、合併症への細心の注意が必要とのこと。いずれにしても長期の入院が不可欠。この際、覚悟して、真面目な患者になろうと思う。
無菌室に入って2日目。抗がん剤治療が終わるまでのおよそ1ヶ月間は部屋からは出られず、部屋の中をウロウロ。今日は投薬前の、歯の検診のため、久しぶりに外来へ。それほど日数が経っていないにも関わらず、たくさんのヒトの往来を見るのは、とても新鮮。今のところ、快食、快眠。